許冠文の唱える“誠信論” 【上】

2009.11.27 Fri

※これは、20091127日の出来事です。

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写真:廉政公署より拝借

急激に変化する現代社会を前に、
青少年は如何なる品格が求められ、如何なる価値観を守るべきなのか。
2009
1127日、香港の汚職捜査機関『廉政公署(ICAC)』は、教師、社会人のための
「重塑i世代」徳育研討會(“i世代の再建”徳育研究討論会)を開催、
学者や専門家たちを招き、I世代のために如何なる準備が必要かについて考えた。
また、“ベテラン映画人”許冠文(マイケル・ホイ)先生は、彼自身の徳育体験を紹介し、
厳粛な雰囲気の中、マイケル節炸裂の演説を披露したようです!

i世代のiとは次の三つを指すそうな。
Integrity(誠実)
Intelligence(知性)、
Ideal (理想)

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先生の隣には勿論、奥様の姿も!

ICACが作成した“論文集”なるものに、許冠文先生の写真、
及び演説内容(ほぼ全内容)が掲載されています。
ただ、動画と照らし合わせてみた所、論文集に載っている内容は、
マイケルが壇上でスピーチした言葉を所々書き言葉に置き換えるなどして、
全体的に至って真面目な調子で書かれているようです。
よって、許冠文特有のユーモアのある言い回しがイマイチ表現されておりません。
そこの所を踏まえた上でお読みください。(笑)

では、以下訳文になります。



社会の変化と“品徳(品性と道徳)”教育
−保護者とメディアの役割−

香港芸能人協会終身名誉会長
マイケル・ホイ(許冠文)先生

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  “誠信(誠実+信用)”の重要性については、
既に多くの講演者の皆様によって
論じられてきましたので、
私は自分のエピソードをお話したいと思います。



英雄、誠信(誠実+信用)

  父は、私たち兄弟が生まれる以前から既に、息子は4人つくろうと計画していたそうです。
名前は、それぞれ『文武英傑』の文字を用いて、許冠文、許冠武、許冠英、そして許冠傑と命名。
なぜか?私の父は、我々が将来チャンピオンになる事を願っていたからです。
文武の両面において全て一番にならなきゃいけない、と。
父には一人の弟がいるのですが、彼もまた4人の息子がおります。
名前はそれぞれ『光明正大(公明正大)』から一文字ずつ取って名づけたそうです。
私は父に尋ねました。
「父さんが僕たちに“文武英傑”と名づけたのは分かりましたが、
じゃあ叔父さんはどうして“光明正大(公明正大)”って付けたんです?」 

父はこう答えました。
「将来、お前たちが文武の両方面で成功し、皆がチャンピオンになったとしよう。
しかしだな、それが公明正大な方法ではなかったとしたら・・・、ズルをしたり、
悪い下心を持つ事でしか勝ち得なかったとしたら、それは役立たずだ。
決して英雄とは言えないからだよ。」

  私たちは小さい頃から父によって、“英雄”と言う一つの定義を教え込まれました。
実はこれこそが“誠信(誠実+信用)”の意味であり、またすなわち、
卑怯な手を使って勝ち得た勝利は意味を成さないと言う事です。
それ以来、我々四兄弟は、この方針に沿って成長していきました。
“許冠文”と言うこの名前はピッタリですよね。私の文才はこれで良い方でしょうから!
“許冠武”は、いつもケンカばかりしていましたし、“許冠英”は、まるでハエみたいな子供でした。
皺が多く、体も小さく細かったので。そして“許冠傑”は、言うまでもないでしょう。
歌を歌えばナンバーワンで、“豪傑”な人物ですからね。

  ではその後、四兄弟は公明正大に生きる事ができたのか?
総体的に言えば、父の影響力は実に大きかったと私は思います。
今日に至るまで、我々は皆、“公明正大”に生きてきましたから。
決して、“悪い下心を持つ”事もなければ、“ズル”をすることもなくです。
大まかに言えば、我々は皆正しい道を歩いています。


ゴルフにまつわるエピソード

  我々は小さい頃から、“公明正大でなければならない”
と言う父の言葉を聞いて育ちました。ただ、そう聞かされるばかりで、
なぜそうなのかを実際に身を以って体験した事はなかったのですが。
あるゴルフの大会に参加した時にやっとその道理に込められた意味を本当に理解したんです。
あの日一番の正念場、トップ争いをしていた私と相手の差はほんの僅か。
私が一打リードで迎えた最終ホールで、私のボールは木の枝に引っ掛かってしまい、
そのまま打つのは難しい状態でした。私は何も考えることなく、つい足で枝を払いのけてしまうと、
ナイスショットを決め、優勝を勝ち取ったのです。
家に帰ると、優勝カップを書斎のデスクの前に飾り、その日は本当に嬉しかった。
しかしその翌日、キモチに変化が・・・どこかスッキリしないのです。
書き物をしながらも、あのカップを眺めると気分が優れなくて。
それで父のあの言葉を思い出したのです。

ズルをしたり、悪い下心を持って勝ち得たモノである以上、それは公明正大ではない。
そんなモノを、人に見せる勇気があるのか?自分自身にも?

私は、たまらず優勝カップをゴミ箱へ捨てました。翌日、妻がそれを拾ってくると、
私はまたそれをゴミ箱へ。妻もまたそれを拾ってきて・・・。こうして3日後、
「実を言うと、このカップは、ズルをして得たものなんだ」と妻にも打ち明けたんです。
すると妻も静かにカップをゴミ箱へ戻しました。私は妻に聞き返しました。
「このカップを放棄する事に、なぜお前も同意してくれたのか?」と。
すると彼女はこう言ったんです。

捨てるべきだと思ったからよ。
だって、“誠信”と言うのは、人間にとって、とても大切なものですから。

映画動画⇒@

  ついこの間、サッカーW杯ヨーロッパ予選プレーオフのフランス対アイルランド戦で、
スーパースター、ティエリ・アンリが、“神の手”を使って不正にW杯出場権利を獲得しました。
フランス人の80%が、これはフランスの恥だ、辞退するべきだと思ったようです。
ひいては、わが国は決して勝ってはならない。さもなければ、万が一優勝でもしてみろ、
カップの置き場所に困るではないかと思った人もいたそうですね。
このニュースを見て以来、私はフランス人に敬意を表するようになりました。

  広東語映画には、人間が死ぬ間際になるとキマッテ、
“自分の一生は価値があるものだったか?成功したと言えるかどうか?を
自分自身に問う”というシーンがよく出てきますが、
成功者の多くが皆、次の理由から自分は成功者だと考えるようです。
それは、自分は自己・他人・そして社会に対して申し訳が立つ人間かどうかと言う事です。

つまり、人が死ぬ間際になり、自分が成功したかどうか、

人生が楽しかったかどうかを判断する時と言うのは、

実は皆、“誠信”を用いて判断していたと言うことなんです。

最も大事なのは、自分にとっての“関門”を乗り越える事ができたかどうかです。

もし乗り越えられなかったとしたら、成功したとしても意味が無いと私は思います。

ですからこれは個人的な考えですが、他に重要なものなんて何も無い、

“誠信”こそが全てだと私は思います。



誠信がなければ必ず失敗する

  “誠信”がなければ、何事もいずれにせよ失敗に終わる。
これは、私が大きくなってから気付いた事です。

  ニクソン元米大統領は、どうして辞職しなければならなかったのか?
多くの人は、彼がライバルの会話を盗聴しようとしたからだと思っていますが、
実際は、辞職の原因の全てが盗聴にあるわけではないんですよね。
そりゃ盗聴は違法にあたります。しかし、彼は自分の過ちを認めようとしなかった。
これこそが、全国民が彼を許せなかった原因であります。
つまり、彼が“誠信”を以って責任を取ろうとしなかったからです。

  クリントンは、自分の秘書と不義をはたらきましたが、
アメリカ人はなぜ彼を許せなかったのか?それは秘書と関係を持ったことではなく、
彼が非を認めなかったからです。あやうく強制的に失脚させられる所でしたからね。
これもつまりは、“誠信”がなかったからです。
職務をうまくこなせたかどうかと言う問題は、この際二の次でしかないのです。

  この所、我々の親愛なる特首(香港行政長官)はさぞかし頭が痛いことでしょうね。
電球事件
、彼の弟の嫁が購入したリーマン(雷曼)の不良債権が真っ先に払い戻しされた事、
この二つの騒動は、特首に統治能力があるか否かと言う問題よりも、はるかに重大です。
統治できるかどうかは二の次でしかなく、電球事件や、特首の義妹がリーマン債権を
購入していた事実が本当かどうか、これこそが一番重要な問題になるのです。
なぜなら“誠信”に関わる問題だからです。香港人は、“誠信”をとても重要視しますから。
“誠信”がなければ大物になる事はできません。
もし、“海を越える事ができた者が仙人である(諺)”と考えるのならば、
許冠文がゴルフの大会で優勝カップを手にした時と同じ様なことですよ。
優勝カップを目の前にして、自分にとっての関門を乗り越える事ができないような者が、
どうして英雄と呼ぶことができるでしょうか。
死ぬ間際になってもまだ乗り越える事ができない、それは卑怯者です。
自分で自分のことを卑怯者だと呼ぶ・・・
そんな生き方に、他にどんな喜びがあるでしょうか?

  大きな事については勿論ですが、小さな事であっても“誠信”は重要です。
例えば友達に対してや、仕事に対してもそうです。
あれは、私が新しいパートナーと共同で映画を撮っていた時の事です。
彼は帽子をコレクションするのが大好きで、様々な種類の帽子を沢山持っていました。
その中には、数年前に日本で購入した、全世界にも二つしかないと言う帽子があったのですが、
私の事を崇拝していると言う彼は、特別にその帽子を私にプレゼントしてくれたんです。
私はその帽子を被りながら、共同制作のプロジェクトについて彼とざっくばらんに話し合いました。
そして三ヵ月後、再び彼と一緒に食事をする機会があったのですが、
彼は、全く同じ帽子を劉コ華(アンディ・ラウ)にもプレゼントすると、
アンディに向かってこう言ったのです。
「この帽子をプレゼントするのは、あなたが初めてです!」と。
私は彼の向かい側に座っていたのですが、彼は私には聞こえていないと思ったのでしょうね。
私はもう悲しくてたまりませんでした。
それ以来、映画の仕事でこの方とご一緒する事は二度となくなりました。
たかが帽子一つぐらいで・・・と皆さんは思うかもしれませんが、
たかが帽子一つをプレゼントするのでさえもウソをつくのですから、
この先どんなウソが出てきてもおかしくないって事でしょう!
こういう人を、どうやってもう一度信じろと言うんです?
これもまた、“誠信”が大切である事の証明なんです。映画動画⇒A

  総じて言えば、“誠信”こそが全てである、と言う事です。
ただ不幸にも、今の世の中には、“誠信”と言うものが非常に薄れてきていると
私は思います。アメリカの前FRB議長 グリーンスパンが言った言葉です。

“資本主義は、本来はとても完璧なものだった。供給が全てを決定する。
しかしこれは、人に誠信や良心がある事を仮定した上での話である。”


彼は、2008年末に起きた金融市場の崩壊にとても失望したそうです。
なぜなら、なんと人間には、あるべきはずの基本的な良心さえもなかったからです。
だから金融危機が起きるんだ。まるで世界の末日のようだと。
この全人類の中にある“誠信”の崩壊が、人類の未来に危機を引き起こしているのです。

  見てくださいよ。香港とアメリカのある銀行は、我々のお金を賭博のごとく
ハイリスクな投資に注ぎ込み、破産したら知らん振りですよ。
そして自分たちはプライベートジェットに乗って、引き続き世界一周旅行を楽しむわけです。
少しの責任も感じていないのです。これが“誠信”と言えますか?
銀行は、我々の財産を守ると約束したはずなのに。
昔の武侠映画の中に出てくる両替商は、どれだけ貸しをつくろうとも、
死に物狂いで金を拾い集めてきたものです。これでこそ“誠信”ですよ。

  では今度は、我々の日常生活の中における“誠信”の重要性についてです。
香港のある有料TV局の話ですが、新規登録をお願いする時は、
何でもイイです!と言うのに、一旦解約しようとすると、何もかもダメだと言ってくる。
おかげで何ヶ月経っても手続きが終わらない事も・・・。
これは、全く“誠信”のないやり方です。
ある大手企業は、客の関心を引く経営方式を採用しています。その中には、
クレジットカードの優待特典だったり、ホテルの割引クーポンだったりがありますが、
たいていの場合、例えば、5軒あるレストランの内、気付いたら3軒は改装中なんですよね。
他の2軒に関しても、おトクなサービスと言っても、多くの制限が設けられていますし。
我々は騙されたと思うでしょう。しかし彼らは、一旦加入してしまうと、
こちらに脱会の機会を与えないようにするんです。でも、客は一度しか騙されませんよ。
企業の経営者はご存じないかもしれませんがね。
彼らのやり方は、あまりにも馬鹿げていますよ。映画動画⇒B

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