許冠文的喜劇人生(上) @

2012.01.21 Sat

今年、『明報周刊』の“集體回憶”と言うコーナーに二回に渡って
許冠文先生のインタビュー記事が掲載されました。
今年の二月に行われた例のチャリティートークショー男女戦争
宣伝のために特集されたようですが、その内容は、
映画人生を中心に綴られる興味深い“許冠文史”でありました!

※文中、マイケルが『鬼馬雙星』の主題曲誕生のキッカケについて
チラっと触れていますが、これには続きと言うか、
補足しなければならない事があるので、
こちらをご覧下さい。


◇雑誌名:明報周刊』
◇発売日:2012121日(第2254期)
◇内容:P114P119 『許冠文的喜劇人生()

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では先ず、前編(本文のみ)を訳してみたので、

ここに載せておきます。ご参考までに!
以下、訳文になります。


イカサマ・ニワトリ体操・つけ出っ歯!
マイケル・ホイのコメディ人生(上)

当世のお正月コメディ映画は、“脚本の無い即興劇”とのニュースがよく流れるが、
許冠文(マイケル)は、真剣な表情で“笑い”についてこう語る。

「笑いと言うのは、その場の行き当たりばったりでやるのではなく、
予めキチント計画されたものなんですよ。『半斤八両』のキッチンでのアクションは、
どのカットも、撮影する以前に既に絵コンテが出来上がっていました。
ソーセージを使ったヌンチャクさばきだって、私は丸々2ヶ月練習したんです。
そんな即興で、じゃあやってみるかと言って出来るわけがないでしょう?」

デビュー作『大軍閥』に始まり、大衆娯楽に関わって40年、その間、
今でこそ名作と呼ばれる数多くの作品への出演オファーはおろか、
海外進出のチャンスをも断ってきたと言うマイケル。
まだ微博(大陸版ツイッター)もなければ、フェイスブック・掲示板もない時代の中で、
勇敢にも、♪我地呢班打工仔(オレたち労働者は)♪
労働者たちに代わって声を上げたのも、“香港製造”のホイ兄弟であった。


「私は、一生コメディ映画だけを撮り続けたいんです。
人が泣いている姿を見たくないんです。泣きたい時は?
新聞をめくれば、どれも泣きたくなるような記事ばかりですよ!」


自分を売り込み人生一変
月給5千ドルには内心大喜び


  近年、大好きなスタンダップ・コメディに対しては疲れを知らないと言う許冠文。
二月の初めには、新たなステージ『男女戦争』が幕を開ける。

「以前の私は、観客と向き合う事をしなかった。
でも今は、ステージに立ち、
観客に向かってトークをすることで、
自分の感覚が客とズレていれば、すぐに分かるんです


今回のトークショーは、香港のボランティア団体「生命熱線(いのちのホットライン)」を
支援するための募金を募るチャリティー・トークショーだ。

「香港人が自殺する原因なんですけどね、その殆どがなんと、
話しを聞いてくれる相手がいないからなんです。科学が進歩するに従い、
人と人とのコミュニケーションは、全く無くなってしまいました。
以前の世の中はよかったですよぉ。例えば、私がダイアモンドヒルに住んでいた頃、
生活は貧しく、ろくにご飯も食べられなかったのですが、それでも兄弟4人、
二台の二段ベッドで眠り、何かあれば直接打ち明けたものです。
暇な時は谷川で体を洗い、ツイデに魚を掴み取りして、食べるもよし!」

  ちっぽけな部屋ではプライバシーなんてものは持てない。
家を養う親の苦労は、兄弟4人には一目瞭然だった。

「父は、湾仔にあるホテルで働いていました。ある時、一艘の航空母艦が香港に寄航し、
大勢の水兵たちが上陸した時は、3日連続泊り込みで働き、4日目になって帰宅すると、
ベッドに倒れ込むように眠っていましたねぇ」

貧しさから脱するため、父親は“洗脳”でもするようにマイケルにこう言い聞かせたと言う。

「とにかく勉強は絶対にせねばならん!勉強すれば考える力が身に付き、
金を儲けることができる。一旦成功したら、お前が弟や妹たちを守ってやりなさい・・・・」

  “長男なら責任を負わなければならない”、この思想はマイケルの頭の中に植え付けられ、
師範学校を卒業した彼は、待ちきれないと言わんばかりに教鞭を執るのだった。
しかし、大学進学への思いを未だ捨てきれないでいたマイケルは、
ある日その話を再度母に持ち掛けてみることに。すると母は次のように答えた。

「パパの稼ぎでは不十分だから、あなたの教師としての収入が支えなの。
家計に支障をきたさないという条件ならば、勉強を続けても構いませんよ」

マイケルは、ためらうことなく聖芳濟書院に退職の意を伝えた。
校長は、受け持つ授業時数を三分の二ほど減らすよう提案した。(勿論それは減給を指す)
またその他にも、塾や夜間学校で講師のバイトをするなどして、
それでなんとかやっと香港中文大学に進学する事ができたのだ。

「私は一日中授業をサボることになり、先生からは怠け者だと思われたでしょう。
でも実は、私はその間も寸暇を惜しんで働いていたんですよ」

  それでも如何せん、家の生活費は十分ではなかった。そんな時、
当時、無綫電視(地上波テレビ局)で『星報青年節目』の司会を務めていた

許冠傑(Sam)を訪ねたマイケルに、ある好奇心が芽生え始めることに・・・

「テレビの仕事って、何をするんだ?金は貰えるのか?」
「稼げるよ!それに他のバイトより割がいいんだよ!」
「じゃあ、俺にも仕事を紹介してもらえないだろうか?」

Samはすぐさま兄に代わり、社長 貝諾(Colin Bednall)との面接の場を設けた。

「この面接が、私の一生を変えたんですよ!」

面接で積極的に自分を売り込んだマイケル。
その日の事は、永遠に忘れる事のない思い出となる。

「私はこう言ったんですよ。“聞くところによると、司会者を募集しているそうですね。
私、トークには自信があります。何か仕事を頂けないでしょうか?”
社長から、私が何者なのかと聞かれたので、教師をしていますと答えたら、
彼はちょっと笑って・・・。恐らく、変なヤツがやって来たと思ったのでしょう!」

貝諾(ベドナル)は、マイケルに拳をマイクに見立てて何か喋ってみるようにと要求。
マイケルの話し振りを見た貝諾(ベドナル)はこう言った。

「今、中高生を対象にしたクイズ選手権をやりたいと考えているのだが、
君は教師をしていたと言ったね!興味はあるかね?
君に6ヶ月の時間を与えるから、レポートを書いて来たまえ!!」

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  このチャンスを逃してはなるものか!善は急げ!と思ったマイケル。
午後3時に帰宅するなり、猛スピードで彼がよく知る中学78校に問い合わせて
参加希望の有無を確認。また、タイピングをやらせたら驚くほど速いクラスの女子
(つまり奥様のこと)にも手伝って貰うと、明け方の5時には約60枚にも及ぶ報告書を完成させた。


「翌朝の8時、一足先に貝諾(ベドナル)のオフィスを訪れた私は、腰を下ろして
彼の到着を待った。
彼の秘書からは、なぜこんなに早く来たのかと聞かれましたね。
待つこと一時間半、
漸くベドナルが現れた。私が、レポートを提出しに来たと言うと
驚いていましたねぇ。
“もうできたのか?こんなに早く”って。」

彼はレポートを手に取ると、パラパラと目を通し少し考え込んでから部下に電話。
「『歡樂今宵』の放送作家のギャラはどれくらいだ?」
と聞いた後、マイケルにこう言った。


「キミを採用しよう。明日からこの番組の準備に取り掛かりたまえ。
出来るだけ早く公開するんだ。月給は5千元で足りるかな?」

彼は平静を装っていたが、内心は喜びに溢れていた。

「当時の私の給料は、正規教員でも一ヶ月675元でしたからね。しかも、
貝諾(ベドナル)はとても律儀な方で、給料は前日の分から計算に入れてくれたんです」

  
一ヵ月後、『校際問答比賽(学校対抗クイズ大会)』が開催された。
紳士的でまじめ顔のマイケルは皆から好感を持たれ、
『歡樂今宵(1967年スタートの香港の長寿番組)』の司会者の座を獲得することになる。


「彼ら(出演者)の演じる茶番劇を毎日のように見ていたら、腕がムズムズしてきましてね。
自分でコントを作ってみたら、これが好評だったんですよ!それからと言うもの、
3
つ、5つとコントを書くのが日課となり、それを梁醒波や杜平らに演じて貰うように」

王晶(バリー・ウォン)は、マイケル・ホイこそが“港gag(香港ギャグ)”のパイオニアだと称する。
そもそも、“香港ギャグ”とはどこから来たのか?


「香港ラサールスクールに通っていた時、
私は英語が割りと得意で、また、クラスメートが
裕福だったもので、
彼らの家にお邪魔しては海外の作品を鑑賞したりしてたんです。

その時に、短いジョークのようなもの、つまり『ギャグ』が流行っている事を知り、

当時の『広東語劇』は如何にテンポが遅いかと言う事に気付いたんですよ。
梁醒波や伊秋水がやる喜劇は二時間もあるのに、どうして笑い所は
その内三回しかないのだろう?って。そこで、ストーリーが占める割合を少なくして、
その代わりにギャグを絶えず盛り込むことにしたんです」

こうして、マイケル・ホイ作品の方程式、雛形が徐々に形成されていく。


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COMMENT
Baakkeiさん 翻訳ご苦労様です。
マイケル先生が教師として勤務していた聖芳濟書院(聖フランシス高校)って、偶然にも阿Samの母校じゃないですか…。

昔中国でも日本でも長男は跡取りで大事にされていましたね。
マイケル先生もやはり保守的なご両親から自然と「自分が両親と弟妹を養わないといけない」と教わってきたんだと思います。

あと英語が得意だったことで外国作品に触れられたことも大きな要因ですね。
香港が東洋と西洋の交差点ということもあって彼らのギャグは両方のいいとこどりといっても過言ではありませんね。
Posted by よーこぶー at 2012年09月06日
★よーこぶーさん

サムさんの母校が聖芳濟書院なのは、
偶然ではなく、必然だと思いますよ。^^

>両方のいいとこどり
本当にそうですね。
勿論コメディに限った事ではないと思いますが、
大陸や台湾と比べても、香港映画が独特なのは、
そう言う特殊な環境によるものでしょうね。
Posted by Baakkei at 2012年09月07日

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